斎藤 幸平著『人新世の「資本論」』を読んだ。
読み終えた後、胸に残ったのは不安でも怒りでもなく、「どうすればいいんだろう」という深い問いだった。
資本主義が加速する現代。便利さや快適さを求める一方で、地球環境は着実に蝕まれている。温暖化、大規模な干ばつ、極端な気象。そしてその影響を最初に、かつ最も強く受けるのは、グローバルサウスと呼ばれる国々や地域に生きる人々だ。
私たちは知らず知らずのうちに「他者の犠牲の上で生きている」ことを、本書は静かに、しかし痛烈に突きつけてくる。
『人新世の「資本論」』から見えてきたこと

この本で語られるメッセージは明快だった。
資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステムである。そして、その過程では、環境への負荷を外部へ転嫁しながら、自然と人間からの収奪を行ってきた。この過程は、マルクスが言うように、「際限のない」運動である。利潤を増やすための経済成長をけっして止めることがないのが、資本主義の本質なのだ。
(『人新世の「資本論」』P.116~117 斎藤 幸平著)
本来の「使用価値」ではなく、「交換価値」や「希少性」という幻想によって価値が創られ、モノが売られる。効率を上げ、利益を最大化するために、森林が伐採され、空気が汚され、水が奪われる。
一方で、私たちの日常は驚くほど快適で清潔で、エアコンがきき、欲しい物がすぐに手に入る世界にいる。その裏側で何が起きているのかを、知ることなく。
例えば、普段何気なく着ている洋服。それが安価で手に入る背景には、過酷な環境下で働く誰かが存在しているかもしれない。
電気ポットで沸かすお湯。それが原発や火力発電に依存していることは、頭ではわかっていても、現実味がない。
僕らが享受している快適さの裏には、必ず「誰か」がいる。その事実に、私たちはもっと敏感にならなければいけない。
快適さは果たして幸せを生んでいるのだろうか?

僕は日本という安全で快適な国に住んでいる。
お金を払えば一定の品質が担保されたサービスを享受でき、紛争とも無縁で命の危険にさらされることもない。そういった生活が、誰かが何かの価値を生み出し続けてくれた結果もたらされたものであるのは紛れもない事実だ。
しかし、その生活が幸せかどうかはまた別の問題である。
快適ゆえに、そうでない場合にはストレスを感じ、命の危険にさらされないがゆえに命の尊さや生きているという実感が失われる。
私たちのほとんどは、自分の手で動物を飼育し、魚を釣り、それらを捌くという能力をもっていない。一昔前の人々は、そのための道具さえも、自前で作っていた。それに比べると私たちは資本主義に取り込まれ、生き物として無力になっている。商品の力を媒介せずには生きられない。
(『人新世の「資本論」』P.220 斎藤 幸平著)
こうして、人々は、理想の姿、夢、憧れを得ようと、モノを絶えず購入するために労働へと駆り立てられ、また消費する。その過程に終わりはない。消費主義社会は、商品が約束する理想が失敗することを織り込むことによってのみ、人々を絶えざる消費に駆り立てることができる。「満たされない」という希少性の感覚こそが、資本主義の原動力なのである。
(『人新世の「資本論」』P.257 斎藤 幸平著)
資本主義という利益を無条件に上げ続けなければならない構造であるがゆえに、僕らはあまりにも早すぎるスピードで世界を変えてしまっているのではないだろうか。幸せになれるかどうかを考えることもなく。
茶道の中にある「脱成長」の思想

資本主義がもたらす弊害から脱するために、著者は「脱成長」たる思想を謳っている。
その思想においては、極端な経済成長は追求しない。
むしろある種の不便さを受け入れて、これ以上環境に負荷をかけるような量の二酸化炭素を排出する生産を止め、生活していくのだ。
その点に重なるかのように、茶道の世界は、派手な消費や効率とは真逆の場所にある。
着物は一着を何十年も着続けられるように作られ、道具も手入れをすれば長く使える。季節の花を一輪、その生命を絶やすことなく床の間に飾り、炭を使って暖をとり、ただ一服のお茶を飲むためだけに一連の所作を必要とする。
そのどれもが「今あるものを丁寧に使う、今という時間を丁寧に生きる」という姿勢に貫かれている。そして「足るを知る」という精神が根本にある。
僕ら一人ひとりがこのような価値観に近づけていくことが、資本主義に争う一歩になるのではないか。
もちろん、茶道だけで地球の温暖化が止まるわけではない。でも、一人ひとりの感受性が変わることで、社会全体の価値観も少しずつ変わる。その小さな波紋が、やがて大きな変化へとつながるかもしれない。
コモンを作る──お茶を点てるという営み

本書では、資本主義に代わる新しい仕組みとして「コモン」が紹介されている。
コモンとは、特定のコミュニティの中で資源を共有・管理し、自立的に運営していく仕組み。競争ではなく、協調によって成り立つものだ。
つまるところ、健全なコミュニティをいかに醸成させるかだと思う。
コミュニティというとすでにあるような市区町村の自治体であり、会社であり、はたまた家族だったり、その規模感は様々だ。
茶道における社中もその一つだし、社中を飛び越えた茶道仲間もコミュニティと言えるだろう。
いずれにせよ、多くの人たちの価値観を強制的に変えるには、法や制度がもっとも効率的で影響力があると思う。
しかし、それらを変更する権限のある国や行政を変えるのはハードルが高いだけでなく、それこそ同じくらいの影響力を持ったコミュニティが必要だ。
では、このまま何もせずに、自分も資本主義による環境破壊を促進する一人となってしまってよいのだろうか?
僕はそこに対して、茶道の営みを通してNOを突きつけたい。
お茶を点てる行為とその魅力を伝えていくことが、資本主義とは別の道を進んでいくヒントになるのではないか。そう信じたい。
終わりに──茶道は決して万能ではない

もちろん、環境問題は個人の「良い心がけ」だけでどうにかなるものではない。社会構造、企業活動、政治的な選択……変えるべきものは多い。
けれど、はじまりはいつも「足るを知ること」からだ。
誰かのためにお茶を点てる。その一連の行為に、地球の未来を少しよくするヒントがあると僕は思う。
しかし、お茶をやっているということだけで満足してはならない。現状から目を背けてはならない。
例えば、僕らの生活を快適にする素材であり、一方で地球環境には悪影響を及ぼすプラスチック。
現代においてその素材を拒絶して生きることは難しいし、自分自身もその快適さにどっぷり浸かっているのは事実だ。
僕らは今この瞬間にも何かを犠牲にしている。
お茶をやりながらも、そういったことを忘れずに歩みを続けたい。
最後に、実際に脱プラスチック生活を送ろうと試みた斎藤 幸平さんが書いた別の本も参照されたい。
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